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拙稿の誤植について

先日紹介しました下記拙稿に誤植があることが判明しました。校正時の見おとしでお恥ずかしい限りです。お詫びして訂正いたします。

原 直史「文政期新潟・沼垂掛積争論からみる地域海運秩序」『資料学研究』13号、2016年3月

p4、10行目 ×「二十町ほどの」 → ○「十町ほどの」

新潟日報夕刊でご紹介いただきました

昨年より地域貢献の一環として、地元の新潟日報カルチャースクールにて古文書講座の講師を行っているのですが、先日4月21日付け新潟日報夕刊でその様子をご紹介いただきました。その內容は下記リンク先より参照できます。

きょうみの扉(メディアシップ教室講師紹介)『古文書講座(入門編)』・原直史さん

「江戸時代以降の古文書は、いまも各地に残っています。地域の宝を守るためにも、多くの人に古文書に関心を持ってもらいたいですね」と語った。

このメッセージがが記者さんにちゃんと伝わって良かったと思います。

追悼・滝沢繁さん

さる4月3日、南魚沼市の滝沢繁さんが亡くなりました。滝沢さんはもと高校の日本史教員で、現役教員の頃から県内各地の地域史研究にたずさわり、とくに退職後の近年は、地元魚沼の歴史研究を精力的につづけて来られました。

私がはじめて滝沢さんと出会ったのは、東京大学本郷キャンパスまえの「祇園」という飲み屋でした。たしか滝沢さんはその頃、内地留学で東大史料編纂所に来られており、同じく東大に出入りしていた竹田和夫さんを介してご挨拶したのではなかったかと記憶しています。当時私はまだ学部生か、修士に入りたての頃だったでしょうか。その後私が新潟にやって来て、数々の場でご一緒することになるとは、夢にも思っていなかった頃でした。

新潟大学人文学部は南魚沼市と連携協定を結んでおり、地域映像アーカイブなどの事業を通じて、地元の研究者である滝沢さんには、学部全体がお世話になったとも言えます。

とてもお元気だった滝沢さんですが、昨年脳腫瘍(だったと思います)を患って手術をされ、その後放射線治療等を続けておられました。昨年9月にはご自宅にうかがってお会いしているのですが、少しおつらそうではあったものの、着実に回復していると思っていましたので、訃報をきいた時は大変にびっくりしました。

4月5日に六日町でおこなわれたお通夜に参列してきましたが、その場でお会いした見知った方々はみな一様に呆然とした風でした。だれもがこんなに早く亡くなるとは考えていなかったのです。享年73とのことでした。

実は昨年9月の訪問は、塩沢のとある文化財について、滝沢さんからご相談をいだたいたことによるものでした。治療中で出歩けないということで、ご自宅にうかがったのでした。そして今にして思うと、万が一の時のことを考え、まわりの人間に様々なことを託しておきたい、というお気持ちもあったのかもしれません。

滝沢先生、ゆっくりとお休みください。先生が思い残したことのせめて一部でも引き継いでいけるよう、気を引き締めたいと思います。

山本幸俊論文集の刊行について

山本幸俊論文刊行会からのご案内を下記に転記します。


山本幸俊論文集の刊行にご協力下さい

  現在、山本幸俊論文集刊行会の会員は、2012年に急逝された山本幸俊氏の論文集を2014年4月の刊行をめざして取り組んでいます。
 山本幸俊氏は、立正大学を卒業後、新潟県内の小学校の教諭となり、その後、新潟県立文書館、上越市史編さん室に勤務され、上越市公文書センター長を勤められました。山本氏は近世初期村落の研究から出発され、研究の後半は資料保存の研究と実践に尽力されました。
 山本氏は越佐歴史資料調査会を立ち上げ、地域に寄り添った資料保存と研究活動を行ってこられました。また、2004年7月の新潟県の水害、同年10月の新潟県中越地震からの資料保存に取り組まれ、新潟歴史資料救済ネットワークの設立に貢献されました。
 山本幸俊氏の研究成果を多くの方々に知っていただきたいと思い、氏の村落と地域資料保存研究の論文を収めた山本幸俊論文集の刊行に向けて鋭意取り組んでいます。刊行には資金が必要です。山本幸俊氏の論文集の刊行にご協力をお願いします。
 2013年10月 
                           山本幸俊論文集刊行会
                                   青木 直己
                                   浅倉 有子
                                   小酒井大悟
                                   白川部達夫
                                   杉本 耕一
                                   田中 洋史
                                   中川 浩宣
                                   長谷川 伸
                                   花岡 公貴
                                   原 直史
                                   福原 圭一
                                   本田 雄二
                                   矢田 俊文
                                   渡部 浩二
                      (刊行会会員は、2013年10月12日現在)

 山本幸俊氏の論文集の刊行にご協力いただける方へのお願い

刊行会としては次のようなご協力をお願いしたいと考えています。
一口一万円を次の口座に振り込んで下さい。一口お送りいただいた方には、出版社の高志書院より、山本幸俊さんの論文集を1冊お送りします。

 〈口座記号番号〉 00580-7-85348
 〈加入者名〉 山本幸俊論文集刊行会

この口座を他金融機関からの振込の受取口座として利用される際は次の内容をご指定ください
銀行名 ゆうちょ銀行 金融機関コード 9900
店名 〇五九(読み ゼロゴキユウ) 店番 059
預金種目 当座       口座番号 0085348

山本幸俊『近世の村落と地域史料保存』
目次
第1部 近世の地域と村
1 貞享・元禄期の家族形態の変化と水呑の形成ー筑波郡山口・小田西町を中心にー
2 近世初期の村落と「土豪」ー常陸国新治郡金田村を中心にー
3 近世初期の論所と裁許ー会津藩を中心にー
4 越後山間地域における村落間相論ー近世前期の変容ー
5 中世末・近世初期の越後の村
6 上杉領国における「村」の形成ー頸城郡京田村を中心にー
第2部 地域史料の保存と研究
1 地域史料の保存と文書館ー新潟県立文書館、史料所在調査の試みー
2 歴史研究者、一歩前へ
3 地方史研究と史料保存ー越佐歴史資料調査会の活動ー
4 平成の市町村合併と公文書等の保存ー新潟県の事例を中心にー
5 学校統廃合と学校アーカイブズの保存ー新潟県の事例を中心にー
6 市民の中の地域史研究

サイトダウンのお知らせ

本サイトを運用しているサーバーの設置場所における停電の影響で、明日10月5日8:00より、本サイトがダウンします。通電が復帰し次第再開する予定です。直前のアナウンスで恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

なお、諸々の理由で8月頃から以後当サイトの更新がままなりません。落ち着きましたら順次この間の報告もしていきたいと思っていますのて、今しばらくお待ちいただけると幸いです。

青木美智男さんの訃報に接して

近世史研究の大先輩である青木美智男さんが、去る7月11日に旅先での不慮の事故がきっかけで亡くなったことを人づてに聞いたのは、実は7月14日のことでした。そのときはまったく実感がわかず、信じられない、嘘であって欲しいと願ったものです。しかしその後、7月17日になって報道なども行われ、じわじわと事実として迫ってきました。

私が青木さんと親しくお話をするようになったのは、院生時代に誘われて参加した日本福祉大学知多半島総合研究所の廻船史料調査の場でした。当時青木さんは日本福祉大学に勤務されており、知多半島や福井県河野村(現南越前町)での調査合宿にも、校務で忙しい中最大限参加して、それこそ一升瓶とコップ酒を前に、皆で遅くまで色々の話をしました。青木さんは早々に大いびきで寝てしまい、その代わり朝は早起きをして漁港で釣り糸を垂らし、小魚をたくさん釣ってきたのですが、朝食の世話にやってきた地元のおばさんたちに、そんな魚は佃煮にもならないと笑われていた、そんなことも昨日のことのように思い出されます。

私が新潟大学に赴任したのは1994年の10月でしたが、そこでの私の最初の仕事は、前任の故佐藤誠朗さんがお願いしてあった集中講義にやってきた青木さんの、お世話をすることでした。しかし私はまだ新潟のことは右も左もわからず、佐藤さんとも親しく何度も新潟に来ていた青木さんの方が、新潟には詳しいのでした。青木さんに連れて行っていただいた居酒屋で、いろいろと新潟の話なども教わりながら、なんとふたりで一升瓶をあけてしまったのも、このときのことでした。

青木さんとはそのようなおつきあいばかりしていたからかもしれません、私の眼には、「飾らない人というのはまさに青木さんのことであるな」というように写りました。それは単に人なつこいとか、人当たりが良い、庶民的である、とかいうだけのことではなく、年配の大研究者も、当時の我々のような駆け出しの若手も、地元の行政職員も地域のおばさんたちも、誰に対しても分け隔てをしない、平等に接する、というその態度から受け取った印象であったように思います。そしてそれは、庶民の立場に立つという確固とした立脚点を堅持しつつも、若い人たちとも積極的に議論をし、柔軟に新しい考えをも受けいれながら重ねていった、その研究のスタイルにもあらわれているのではないかと、思えるのです。

今日、『歴史評論』760号が届きました。手にとって表紙を見た私は、しばらく絶句してしまいました。何という巡り合わせか、今号には青木さんの「【私の歴史研究】日本近世農民運動史から生活文化史研究へ」が掲載されていたのです。昨年秋に行われたインタビューを構成したものですが、まさに青木さんの遺言となってしまいました。

青木さんはこのインタビューで「重い病気でもしなければ、まだ少し時間があると思いますので、次のことをやり遂げたいと思っております」と、今後の計画を語っています。長く患ったのではなく、不慮の事故に基づくだけに、さぞ無念であったのではないかと、胸が潰れる思いです。青木さんのやり残した課題は、私たちの肩に掛かっています。

ご冥福をお祈りします。