青木美智男さんの訃報に接して

近世史研究の大先輩である青木美智男さんが、去る7月11日に旅先での不慮の事故がきっかけで亡くなったことを人づてに聞いたのは、実は7月14日のことでした。そのときはまったく実感がわかず、信じられない、嘘であって欲しいと願ったものです。しかしその後、7月17日になって報道なども行われ、じわじわと事実として迫ってきました。

私が青木さんと親しくお話をするようになったのは、院生時代に誘われて参加した日本福祉大学知多半島総合研究所の廻船史料調査の場でした。当時青木さんは日本福祉大学に勤務されており、知多半島や福井県河野村(現南越前町)での調査合宿にも、校務で忙しい中最大限参加して、それこそ一升瓶とコップ酒を前に、皆で遅くまで色々の話をしました。青木さんは早々に大いびきで寝てしまい、その代わり朝は早起きをして漁港で釣り糸を垂らし、小魚をたくさん釣ってきたのですが、朝食の世話にやってきた地元のおばさんたちに、そんな魚は佃煮にもならないと笑われていた、そんなことも昨日のことのように思い出されます。

私が新潟大学に赴任したのは1994年の10月でしたが、そこでの私の最初の仕事は、前任の故佐藤誠朗さんがお願いしてあった集中講義にやってきた青木さんの、お世話をすることでした。しかし私はまだ新潟のことは右も左もわからず、佐藤さんとも親しく何度も新潟に来ていた青木さんの方が、新潟には詳しいのでした。青木さんに連れて行っていただいた居酒屋で、いろいろと新潟の話なども教わりながら、なんとふたりで一升瓶をあけてしまったのも、このときのことでした。

青木さんとはそのようなおつきあいばかりしていたからかもしれません、私の眼には、「飾らない人というのはまさに青木さんのことであるな」というように写りました。それは単に人なつこいとか、人当たりが良い、庶民的である、とかいうだけのことではなく、年配の大研究者も、当時の我々のような駆け出しの若手も、地元の行政職員も地域のおばさんたちも、誰に対しても分け隔てをしない、平等に接する、というその態度から受け取った印象であったように思います。そしてそれは、庶民の立場に立つという確固とした立脚点を堅持しつつも、若い人たちとも積極的に議論をし、柔軟に新しい考えをも受けいれながら重ねていった、その研究のスタイルにもあらわれているのではないかと、思えるのです。

今日、『歴史評論』760号が届きました。手にとって表紙を見た私は、しばらく絶句してしまいました。何という巡り合わせか、今号には青木さんの「【私の歴史研究】日本近世農民運動史から生活文化史研究へ」が掲載されていたのです。昨年秋に行われたインタビューを構成したものですが、まさに青木さんの遺言となってしまいました。

青木さんはこのインタビューで「重い病気でもしなければ、まだ少し時間があると思いますので、次のことをやり遂げたいと思っております」と、今後の計画を語っています。長く患ったのではなく、不慮の事故に基づくだけに、さぞ無念であったのではないかと、胸が潰れる思いです。青木さんのやり残した課題は、私たちの肩に掛かっています。

ご冥福をお祈りします。