越佐近世史論文紹介5

  • 藤田貞一郎「徳川期近江鋳物師の他国出稼―栗太郡辻村鋳物師の例―」『社会科学』47号、1991年8月
  • 横田冬彦「鋳物師―辻村鋳物師と真継家―」塚田孝編『シリーズ近世の身分的周縁3 職人・親方・仲間』吉川弘文館、2000年8月

上記はいずれも直接越佐地域を対象としたものではなく、しかもやや以前の論文となります。近江国栗太郡辻村(現滋賀県栗東市)から全国に出店した一大鋳物師集団について扱ったものですが、正徳~享保期段階で記録された全国の出店の一覧の中に、新潟の饗場(相場)金右衛門・藤田次郎右衛門と長岡の田中弥惣兵衛の名がみえます。また藤田論文で紹介されている19世紀初めと推測される一覧資料のなかには、長岡の弥惣兵衛は同名跡、新潟では石場(相場誤か)金右衛門跡として土屋忠左衛門、藤田次郎右衛門跡として藤田良平が登場するほか、三条裏館村の田中佐兵衛、村上上長井町の辻村又五郎が、さらに辻村からの出店として記録されています。

辻村鋳物師の広範囲への出店は17世紀半ばの時期から本格化したようですが、その由緒書によれば、大坂の出店がその嚆矢で、「其後新潟、江戸、諸方へ思々に出店す」と伝承されており、新潟への出店にも画期としての位置づけがなされていたように思われます。そもそも東日本への出店の展開は、江戸→関東諸地域の流れの他に、金沢・新潟・酒田・亀田石脇と、日本海海運に沿った展開が見受けられる点も興味深いといえます。

『新潟市史』によれば、天保14(1843)年新潟上知に際しての記録では、小揚町の相場忠兵衛、神明町寺町の市島正次郎のニ家が新潟の鋳物師としてあげられており、相場は後に土屋(どや)と改姓したこと、市島正次郎の株は、もと近江から来住した藤田家のもので、藤田は文政10年(1827)に廃業し、その株が市島栄吉→市島正次郎と譲渡されたこと、等が明らかにされています(『新潟市史』通史編1、1995年3月、p292)

新潟鋳物師についての専論がこれまでどれだけ積み重ねられているか、まだ検討しきれていないのですが、こうした辻村鋳物師の全国的な活動、特に横田氏が注目した真継家の支配を相対化するような動きを前提にして、地域でのあり方をまた同時に位置づけていくことは、重要な論点であろうと思います。

ちなみに越後の鋳物師の中で、越前から来住したとの由緒を伝える高田城下町の鋳物師は、この辻村鋳物師とはまた別系統のものでしょう。この高田の鋳物師について、私は以前に上越市史の資料編と通史編で若干の言及を行いました。そこでは文政~天保にかけて、高田の鋳物師が原料の荷揚げ場をめぐって宿方と争ったとき、真継家の権威を頼ったことを紹介し、これを契機に「高田鋳物師はそれまで交渉のなかった真継家の支配に服することとなった」(『上越市史』資料編4、2001年3月、p24)と述べたのですが、この記述は不正確なものであり、訂正しなければならないと現在では考えています。

もちろん高田鋳物師がこのときに争論を優位に運ぼうとして真継家を頼ったことは事実ですし、それに対し真継家側から、「年頭八朔嘉儀」等への不参を咎められ、以後その励行が命じられたことも事実です。しかし真継家側の記録によれば、寛政11年(1799)から翌年にかけて、高田鋳物師の山岸藤右衛門、吉田七右衛門、山岸彦次右衛門に対して許状が発給されているのでした(笹本正治『真継家と近世の鋳物師』思文閣出版、1996年2月)。そうしてみると、この事態を正確に表現するならば、まったくそれまで交渉がなかったのではなく、既にいちど編成の網にかかったにもかかわらず、そこから離脱しようとした鋳物師たちを、再度捕捉したものということになるでしょう。

いずれにしても地域の鋳物師の側の主体的な動きと、真継家の思惑との交錯という、大枠のとらえ方は間違っていなかったと考えます。そしてこうした事例ともあわせて考えるとき、新潟の鋳物師も含めて、全国的な視点から越佐の職人のあり方をとらえなおしてみることが、今後とも重要になってくるのではないかと考えます。