越佐近世史論文紹介2

  • 横山百合子「一九世紀都市社会における地域ヘゲモニーの再編―女髪結・遊女の生存と〈解放〉をめぐって―」『歴史学研究』885号、2011年10月
  • 横山百合子「芸娼妓解放令と遊女―新吉原「かしく」一件史料の紹介をかねて」『東京大学日本史学研究室紀要別冊 近世社会史論叢』2013年4月

上記2点は直接に越佐の近世史を扱った研究ではなく、江戸・東京における遊女などの存在のあり方から、身分制的地域支配のゆくえを論じたものですが、その中で越後出身の遊女の生涯が扱われています。この遊女「かしく」の足跡については、歴史学研究会大会全体会報告をまとめた2011年の論文には、表の形でまとめられていますが、2013年の論文では、史料全文の翻刻とともにより詳しく知ることが出来ます。

これらによれば、彼女の生国は「寄上村」「越後国蒲原郡巻野在は東ゆり上ケ村」「越後巻葛根在上ケ村」等と記載されていますが、これはまさに越後国蒲原郡東ゆり上村(現新潟市西蒲区東汰上)でしょう。同村は史料により「汰上」の漢字表記と「ゆり上」のかな表記が混在しますが、例えば幕府の天保郷帳では「東ゆり上村」となっています。長岡藩領の曽根組に属しますが、同じく代官所が置かれた巻村にも近いため、「巻の在」と表現されることも不自然ではありません。なお「巻葛根在」は、「巻・曽根在」がどこかの段階で転じた可能性もあるでしょう。

「かしく」は幼くしてまず日光例幣使街道の合戦場宿(現栃木市)に売られたことから、遊女としての人生を歩みはじめ、その後品川・千住・深川といった江戸・東京周縁部の遊所を経て、新吉原の遊女になったところ、1872(明治5)年の芸娼妓解放令に逢っています。彼女は遊女奉公からの解放を願い、一方で「人主」の平山政五郎は、彼女の身柄を執拗に拘束しようとするのですが、その平山はかつて自ら深川で営んでいた遊女屋で彼女を受け入れるまでは、彼女は浅草聖天町の寿司屋の下で養女になっていたのだといい、それはその寿司屋の妻が彼女と「同村出生之知り合」であったからだと述べています。

越佐近世史という別の視点からこの「かしく」の生涯をみると、彼女を吉原まで導いたいくつかのネットワークのあり方に思いをはせざるを得ません。