月別アーカイブ: 2013年6月

越佐近世史論文紹介5

  • 藤田貞一郎「徳川期近江鋳物師の他国出稼―栗太郡辻村鋳物師の例―」『社会科学』47号、1991年8月
  • 横田冬彦「鋳物師―辻村鋳物師と真継家―」塚田孝編『シリーズ近世の身分的周縁3 職人・親方・仲間』吉川弘文館、2000年8月

上記はいずれも直接越佐地域を対象としたものではなく、しかもやや以前の論文となります。近江国栗太郡辻村(現滋賀県栗東市)から全国に出店した一大鋳物師集団について扱ったものですが、正徳~享保期段階で記録された全国の出店の一覧の中に、新潟の饗場(相場)金右衛門・藤田次郎右衛門と長岡の田中弥惣兵衛の名がみえます。また藤田論文で紹介されている19世紀初めと推測される一覧資料のなかには、長岡の弥惣兵衛は同名跡、新潟では石場(相場誤か)金右衛門跡として土屋忠左衛門、藤田次郎右衛門跡として藤田良平が登場するほか、三条裏館村の田中佐兵衛、村上上長井町の辻村又五郎が、さらに辻村からの出店として記録されています。

辻村鋳物師の広範囲への出店は17世紀半ばの時期から本格化したようですが、その由緒書によれば、大坂の出店がその嚆矢で、「其後新潟、江戸、諸方へ思々に出店す」と伝承されており、新潟への出店にも画期としての位置づけがなされていたように思われます。そもそも東日本への出店の展開は、江戸→関東諸地域の流れの他に、金沢・新潟・酒田・亀田石脇と、日本海海運に沿った展開が見受けられる点も興味深いといえます。

『新潟市史』によれば、天保14(1843)年新潟上知に際しての記録では、小揚町の相場忠兵衛、神明町寺町の市島正次郎のニ家が新潟の鋳物師としてあげられており、相場は後に土屋(どや)と改姓したこと、市島正次郎の株は、もと近江から来住した藤田家のもので、藤田は文政10年(1827)に廃業し、その株が市島栄吉→市島正次郎と譲渡されたこと、等が明らかにされています(『新潟市史』通史編1、1995年3月、p292)

新潟鋳物師についての専論がこれまでどれだけ積み重ねられているか、まだ検討しきれていないのですが、こうした辻村鋳物師の全国的な活動、特に横田氏が注目した真継家の支配を相対化するような動きを前提にして、地域でのあり方をまた同時に位置づけていくことは、重要な論点であろうと思います。

ちなみに越後の鋳物師の中で、越前から来住したとの由緒を伝える高田城下町の鋳物師は、この辻村鋳物師とはまた別系統のものでしょう。この高田の鋳物師について、私は以前に上越市史の資料編と通史編で若干の言及を行いました。そこでは文政~天保にかけて、高田の鋳物師が原料の荷揚げ場をめぐって宿方と争ったとき、真継家の権威を頼ったことを紹介し、これを契機に「高田鋳物師はそれまで交渉のなかった真継家の支配に服することとなった」(『上越市史』資料編4、2001年3月、p24)と述べたのですが、この記述は不正確なものであり、訂正しなければならないと現在では考えています。

もちろん高田鋳物師がこのときに争論を優位に運ぼうとして真継家を頼ったことは事実ですし、それに対し真継家側から、「年頭八朔嘉儀」等への不参を咎められ、以後その励行が命じられたことも事実です。しかし真継家側の記録によれば、寛政11年(1799)から翌年にかけて、高田鋳物師の山岸藤右衛門、吉田七右衛門、山岸彦次右衛門に対して許状が発給されているのでした(笹本正治『真継家と近世の鋳物師』思文閣出版、1996年2月)。そうしてみると、この事態を正確に表現するならば、まったくそれまで交渉がなかったのではなく、既にいちど編成の網にかかったにもかかわらず、そこから離脱しようとした鋳物師たちを、再度捕捉したものということになるでしょう。

いずれにしても地域の鋳物師の側の主体的な動きと、真継家の思惑との交錯という、大枠のとらえ方は間違っていなかったと考えます。そしてこうした事例ともあわせて考えるとき、新潟の鋳物師も含めて、全国的な視点から越佐の職人のあり方をとらえなおしてみることが、今後とも重要になってくるのではないかと考えます。

越佐近世史論文紹介4

  • 鈴木秋彦「新発田十二斎市の成立と展開(一)」『年報新発田学』創刊号、2010年3月
  • 鈴木秋彦「新発田十二斎市の成立と展開(ニ)」『年報新発田学』3号、2012年3月
  • 鈴木秋彦「新発田十二斎市の成立と展開(三)」『年報新発田学』4号、2013年3月

新発田城下町で行われていた十二斎市について多面的に考察した連作。掲載誌の『年報新発田学』は、敬和学園大学が新発田商工会議所の協力のもと運営する「新発田学研究センター」の機関誌ですが、同センターが当初からひとつの目玉として企画実施してきたのが、復活させた新発田十二斎市のイベントです。本論文の筆者である鈴木さんも、その運営に当初から携わってこられたことが、この連作論文執筆の契機となっているようです。

越佐近世史論文紹介3

  • 友田昌宏「幕末期における草莽と諸藩―大野倹次郎とその周辺―」『日本歴史』781号、2013年6月

幕末維新期に「草莽」として活動し、後に長野県令となった大野の思想や行動と、特に米沢藩・新発田藩等諸藩との関係を論じたもの。大野倹次郎は新発田藩領諏訪山新田(現聖籠町)の名主を勤める一方学塾「絆己楼」を営んだ大野恥堂(敬吉)の長男です。

五十嵐・内野周辺巡見

少し前になってしまいましたが、去る6/15土曜日に、副専攻「地域学」の授業のひとつ「地域学実習」の一環で、新潟大学周辺の、五十嵐・内野周辺地区の歴史的景観等を訪ねる巡見を実施しました。毎年行なっている授業ですが、その年の参加学生が訪問先やルート構成などを決めるので(この企画自体が授業の一環です)、少しずつ内容が異なっていたりします。今年度は五十嵐2の町の若宮神社からスタートし、内野町の内野大神宮(上・下)、静田神社、西川水路橋、農民義勇碑(清徳寺)等を見学しましたが、途中「鶴の友」の醸造元、樋木酒造さんも訪問しました。

樋木酒造樋木酒造さんにはこれまでにも何度かおじゃましているのですが、毎回樋木尚一郎社長から熱のこもったお話をうかがいます。そして今回、蔵の内部も見学させていただくことができました。明治期に作られた蔵の内部はなにかとても張り詰めた空気の空間に感じられました。そしてこれを大きくすることは決してせず、このままのサイズで酒造りを続けるという樋木社長のこだわりを、まさにその蔵のなかでうかがうことができ、あらためて深く受け止めることができたように思います。

なお、樋木尚一郎社長から、樋木さんが作成にかかわられたという下記図書をご恵贈いただきました。ありがとうございました。最初の早川氏の本では、まさに樋木社長の酒造りの理念が紹介されています。

  • 早川和宏『世界でいちばん楽しい会社 夢を追う12の起業家たち』三和書籍、2012年10月
  • 佐藤荘威『時の流れに〜昭和から平成へ〜佐藤荘威写真集』2012年7月

 

受贈図書等2013.6.19

九州産業大学の福田千鶴さんより、下記ご著書等をご恵贈いただきました。大変にありがとうございました。

福田千鶴『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社、2011年2月

福田千鶴(研究代表者)『日本近世武家社会における奥向構造に関する基礎的研究』(平成21年度~23年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書)2013年3月

越佐近世史論文紹介2

  • 横山百合子「一九世紀都市社会における地域ヘゲモニーの再編―女髪結・遊女の生存と〈解放〉をめぐって―」『歴史学研究』885号、2011年10月
  • 横山百合子「芸娼妓解放令と遊女―新吉原「かしく」一件史料の紹介をかねて」『東京大学日本史学研究室紀要別冊 近世社会史論叢』2013年4月

上記2点は直接に越佐の近世史を扱った研究ではなく、江戸・東京における遊女などの存在のあり方から、身分制的地域支配のゆくえを論じたものですが、その中で越後出身の遊女の生涯が扱われています。この遊女「かしく」の足跡については、歴史学研究会大会全体会報告をまとめた2011年の論文には、表の形でまとめられていますが、2013年の論文では、史料全文の翻刻とともにより詳しく知ることが出来ます。

これらによれば、彼女の生国は「寄上村」「越後国蒲原郡巻野在は東ゆり上ケ村」「越後巻葛根在上ケ村」等と記載されていますが、これはまさに越後国蒲原郡東ゆり上村(現新潟市西蒲区東汰上)でしょう。同村は史料により「汰上」の漢字表記と「ゆり上」のかな表記が混在しますが、例えば幕府の天保郷帳では「東ゆり上村」となっています。長岡藩領の曽根組に属しますが、同じく代官所が置かれた巻村にも近いため、「巻の在」と表現されることも不自然ではありません。なお「巻葛根在」は、「巻・曽根在」がどこかの段階で転じた可能性もあるでしょう。

「かしく」は幼くしてまず日光例幣使街道の合戦場宿(現栃木市)に売られたことから、遊女としての人生を歩みはじめ、その後品川・千住・深川といった江戸・東京周縁部の遊所を経て、新吉原の遊女になったところ、1872(明治5)年の芸娼妓解放令に逢っています。彼女は遊女奉公からの解放を願い、一方で「人主」の平山政五郎は、彼女の身柄を執拗に拘束しようとするのですが、その平山はかつて自ら深川で営んでいた遊女屋で彼女を受け入れるまでは、彼女は浅草聖天町の寿司屋の下で養女になっていたのだといい、それはその寿司屋の妻が彼女と「同村出生之知り合」であったからだと述べています。

越佐近世史という別の視点からこの「かしく」の生涯をみると、彼女を吉原まで導いたいくつかのネットワークのあり方に思いをはせざるを得ません。

新発田市立図書館の新構想

6月4日付の新潟日報に「新発田駅前に複合施設建設へ」との記事が掲載されました。新発田駅前に市が用地を取得し、図書館を核とした複合施設を2016年度までに建設するという計画を発表したとのことですが、そのうちの目玉となる図書館については、一般図書と児童図書を中心に収蔵し、「現行の市立図書館は、新発田藩の藩政史料など古文書の収蔵に特化し、機能を分ける」と報じられています。

上越市立総合博物館には榊原家文書が一括寄託され、また長岡市では「長岡藩主牧野家史料館」の建設が進んでいるなか、新発田市においても、これを機に藩政史料等の保存利用体制が充実することを大いに期待したいと思います。もちろん大名家文書・藩政史料だけが歴史資料ではないのですが、市町村レベルでの歴史資料の保存利用体制が充実するための、ひとつの牽引役として、がんばっていただけるよう応援していこうと思います。

新発田藩研究会(仮称)のご案内

新発田藩研究会(仮称)のご案内

2013年6月
新潟大学人文学部
原 直史

本年の梅雨入りは例年になく早いとのこと、皆様のところではいかがでしょうか。

さて、このたび標記の研究会を企画いたしました。私原は昨2012年度より、浅倉有子・岩本篤志両氏とともに科研費を取得し、2014年度までの3年間で、新発田藩地域の「藩地域アーカイブズ」を対象とした共同研究を開始しました。これは、全国的に様々な藩を対象とした「藩社会」「藩地域」研究が盛行していることを受け、他方で新発田藩については、豊富な藩政史料が遺されながら、近年必ずしも研究が盛んとはいえなかった、との認識に基づいて、新発田藩とその藩領に関する研究を活性化させたい、との思いによるものです。

その基礎作業として、藩政史料の目録情報の電子化などを進めており、またこの春には浅倉・岩本両氏編による『新発田藩溝口家書目集成』も刊行を見たところですが、さらにこのたびその一環として、科研メンバーの枠を越えた、公開の研究会を開催することといたしました。どのような研究会となっていくか、私自身まだ具体的なビジョンを描けている訳ではありませんが、皆様と議論を重ねることで、少しずつでも育てていければと考えています。

下記の要領で第1回の研究会を開催いたします。ご関心のある方々のご参加をお待ちしています。

日時 2013年7月7日(日) 14:30~17:00
場所 新潟大学総合教育研究棟A棟3階「学際交流室」
報告 浅倉有子氏「溝口家の近世・近代の文書・絵図目録」
   岩本篤志氏「新発田藩溝口家蔵書目録について」
   原 直史「新発田藩地方支配機構をめぐる緒論点(仮)」

※当日は日曜日で校舎が施錠されています。14:15頃より入り口で誘導しますが、遅れそうな方はあらかじめご連絡ください。

※当日研究会開催後に大学周辺で懇親会を開催できればと思っています。人数を把握できるとありがたいので、懇親会も含めて参加予定の方は、その旨あらかじめ下記までご連絡いただければと思います。
  hara◯human.niigata-u.ac.jp
(スパム対策のために@を◯にしていますので、置き換えてメール送信してください)